「何を撮っているかなんて、無意識だったんです。なんだか空(くう)を撮っていますよね」潮田登久子
——ものがぎっしりと詰められた冷蔵庫。取り壊される社屋に置き去りにされた本。子どもたちが出したものが散らかったままの部屋。潮田登久子さんの写真は、見えない時間が凝縮されているかのような余韻を放つ。静かで、クールで、同時に温かい。この不思議な手触りの写真は、どんなものの見方から生まれるのだろう?——
写真を撮るのはぶしつけなこと。武器にもなるし、諸刃の剣
短大を卒業した後だったかな。花嫁修業くらいの気持ちで「デザインやってみようかな」と桑沢(桑沢デザイン研究所)に行ったのね。お料理やお茶やお裁縫よりも、楽しく生活できるような“センス”を身につけたいなって。そしたら、学校に集まってくるのはみんな真剣にデザイナーを目指している人たちばかりで、私みたいにぼんやりしたのは少なかったと思いますよ。
それで、デザインの基礎の科目の中に写真があったんです。デッサンやデザインの技量では他の人たちと並べないけれど、写真なら同じスタートラインに立てると思ったのが、興味を持ったきっかけ。横浜の髙島屋デパートのカメラ売り場でアサヒペンタックスを買ったことを覚えてます。写真家の石元泰博さんの授業で、街で知らない人に声をかけて写真を撮らせてもらうという課題が出て、カメラを持って出かけました。その頃の写真が、このトンボメガネのポートレート(写真上)。今の時代はみんな写真を撮られることにかなり敏感だから、知らない人に街中でこんなアップで正面から撮らせてもらうなんてあり得ないでしょう。最近学校の先生に聞いたら、こういう課題は今はトラブルになりやすいと言っていました。昔はおおらかな時代だったんだと思います。
そんな授業をきっかけに私は写真にのめり込んで、銀座、渋谷、新宿、浅草など、あっちこっちで人を撮りました。見せ物小屋で交渉して撮った時は、たくさん観客がいる場でストロボを焚く、なんて大それたこともしていましたよ。
でも、面白くなってくると同時に、これはぶしつけなことをしているなぁ、と、撮ることに疑問を感じることもあって。写真っていうのは武器にもなるし、信頼を損ねるものにもなってしまう、諸刃の剣なんだと。とはいえ、一歩引いて撮るとつまらなくなってしまうでしょう。
「この瞬間を残したい」人間のシンプルな欲求が写真
それから島尾(夫で写真家の島尾伸三)と一緒になって、子どもが生まれて、写真はちょっとお休みしようかという感じになった。豪徳寺の旧尾崎邸という古い洋館の、天井の高い13畳一間に家族3人で住むという暮らし。お金はないし、不安もあったけど、こんな生活は二度とないだろうという面白さが勝っていました。1万円か2万円で買った半分壊れた冷蔵庫を2万円かけて運搬してもらうという、そういうとんでもない経済観念でしたよ(笑)。近所の子どもたちもしょっちゅう出入りして、島尾が「じじい」なんて呼ばれながら一緒に遊んで、にぎやかな暮らしでした。
でも、子どもが遊びに出かけている時や、静かな夜に、「これから人生どうなるんだろう」とふと思う瞬間がやってくる。そういう時に、部屋の中で写真を撮り始めたんです。出しっぱなしになっているものとか、積み上がっていく荷物とかをね。
みんなが寝静まった後に、自分が着替えている様子がガラスに映っているのを撮ってみて、われに返ってすぐにやめたことがありました。シャッターをこれ1枚しか切ってないんです。「あ、いけね、私何やってるんだろう」と思って、よしたのは覚えてるの。
なにせ、一つの部屋に写真家が2人いるでしょう。島尾はこの時期の写真で『まほちゃん』っていうわが子の写真集を作っちゃったけど、私の方は作品を作ろうとも思わず、何を撮っているかなんて、無意識だったんです。なんだか空(くう)を撮っていますよね。
40年経って、仕事場として引き続き使っていた豪徳寺の部屋を整理していたら、この時期の写真が出てきた。撮っていたことは覚えていたけど、こんなに量があったとは思いませんでした。あの頃、「いつかこれを見て『こういう時代があったんだな』と思える時が来たらいいな」と思いながら撮っていたからか、まるで写真の方から「今だよ」と出てきてくれたような感じ。すごく慌ただしくて騒々しい日々だったはずなのに、写真を見てこんなに静寂な瞬間もあったんだなと思いました。昔は気にもかけなかった写真が今になって良いと思えるのは、不思議なことですね。
旧尾崎邸に住んでいた頃、食べるための写真は撮っていたんですよ。編集プロダクションの仕事で、大学の入学案内のための写真を撮ったり、コンピュータ会社の研修会に記録係として行ったりね。あの頃の仕事は、社会勉強として非常にためになりました。当時はバブル景気に向かって経済が上り調子で、重役らしい人たちが意気揚々と会社の売り上げを発表する姿を撮りながら「これはどこまで上っていくんだろうなぁ」なんて思ってました。その後バブルがはじけて、誰も業績の話なんてしなくなった。ただの記録係だったけれど、そうやって写真を通じて時代が変わるのを見ていたのかもしれないですね。
今でも記録係をすることはあるんですよ。いとこがピアノの先生をやっているから、その「おさらい会」の写真をずっと撮っているのね。昔は小さな子どもたちがおめかしして出てきたんだけど、今は、最近ピアノを習い始めたっていう高齢者ばかりなんです。こうやってカメラを通して世の中が変わっていくのを見るのは、なんだか面白い。長く続けていると、行く末を見たくなるという気持ちもあるしね。
写真は長くやってきたけれど、なにも、技術的に特別なことをやっているというわけではないんです。ただシャッターを切ってるだけ。デジカメだってうまく使えないくらいなんだから(笑)。これからも撮りたいと思うものは出てくると思います。きっと、自分の身近なところから始まるんでしょう。うん、だから長続きしているのかもしれない。
潮田登久子
1940年、東京都生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。街での人物写真からキャリアをスタートさせ、その後は「冷蔵庫/ ICE BOX」、「本の景色/ BIBLIOTHECA」など静物を中心としたシリーズで知られる。2018 年、『本の景色』(ウシマオダ)で第37回土門拳賞、第34回東川賞国内作家賞受賞。2022 年、旧尾崎邸での生活を写した未発表作を写真集『マイハズバンド』(torch press)として出版し、同作で〈Paris Photo–Aperture PhotoBook Awards〉審査員特別賞受賞。
Interview&Text: Chiaki Seito