LIBRARYInnocent View2022.08.10

Innocent View 濱田英明

「自分の子どもを撮る中で気づいたことはあまりにも多かった」濱田英明

——自分の二人の子どもの成長を追った写真が注目され、写真家としてのキャリアをスタートさせた濱田英明さん。彼が写しだす世界は、見る人に自分自身の経験を思い起こさせ、感動させる不思議な力を持つ。子どもの姿を捉え続けてきた写真家が持つ原風景とは。そして、撮るという行為について彼は今、何を思うのか。——

諦めという出発点から始まるということ

僕自身の子ども時代には、正直あまりいい思い出がないんですよね。学校では体のことをからかわれたりして。でも故郷の淡路島はすごくいいところなので、明日にでも帰りたいと思っているくらいです。田舎でやることがなかったのでよく家の屋根に上って、ただ遠くの山を眺めていました。今思えば不思議な時間でした。1980年代で、インターネットももちろんなくて。子どもって逃げ場がないし、ストレスの発散方法も知らないから、そういうプリミティブな方法で自分を慰めようとしていたのかもしれません。
僕はマニアックなところがあって、例えば中高生時代はスピッツやMr.Childrenが人気でよく聴いていましたが、琴線に触れるのはフリッパーズ・ギターのような音楽だったんです。カウンター的な存在を好むあまのじゃくな性格なんですよね。だから、小学校から高校にかけて、話の合う友達には出会えなくて。
今思うと、そういう子どもの頃に抱いた諦めのような感覚を抱えたまま、生きているのかもしれないですね。幸せはいつまでも続くものではないし、なんでも欲しいものが手に入るわけじゃない、と思っています。でも、ネガティブなのかというとまったくそうじゃなくて、諦めという出発点からどういうふうに前に進んでいこうか、という考え方です。たまに、僕の写真は「そっけない」「人間味がない」って言われるんですよ。実際、僕は被写体との間に意図的に距離を作っているので、そういう意味では的を射ているのだと思っています。

自分の撮った写真が見てくれる「あなた」の世界になるように

写真のお仕事はやりたくて始めたわけではないんです。元々はデザイナーとして会社勤めだったんですが、ちょうど子どもが生まれたタイミングで写真を撮り始めたら、それがだんだん認められるようになったんです。当時はブログやSNSが盛り上がりを見せていた頃で、誰もが日記を書いて、写真を撮って、それをネットで公開するようになっていました。僕が20代を過ごした2000年代は、インターネット、ガラケー、スマホ、ブログ、SNSという新しい技術がどんどん現れた時で、それを享受してきました。だから、親になった時に、子どもの写真を撮ってブログにアップするという行為になんの疑いもなかった。すると、僕の写真を見て「自分の子ども時代を思い出しました」と海外から感想を寄せてくれる人がけっこういたんです。最初はびっくりしましたが、なぜだろうと考えて思い至ったのは、どんな人もかつては子どもだった、それは世界共通なんだ、ということでした。だから自分の子どもの写真なのに、みんなの記憶の最大公約数として作用している。それに気づいてから意図的に、我が子をまるで他人のように撮るように意識し始めました。被写体との間に意図的に距離を作るようになったんです。
同じくらいの時期に、デジカメから中判のフィルムカメラに替えたんですが、それが1mより近づけないレンズだったんです。2、3歳くらいだとまだ遠くに離れて撮るのは難しいけれど、4、5歳くらいに成長してきた時にちょうど中判フィルムカメラに替えたので、その距離感でも撮れるようになったんです。
そうやって自分の子どもを撮る中で気づいたことはあまりにも多かったし、その体験で得た被写体との距離の取り方や写真への考え方が今もベースにあります。僕は、自分が見た世界を一方的に見せたいとは思っていません。「わたし」ではなく「あなた」の世界にしたい。自分の存在を感じさせたくないんです。あと、写真を撮る人が「撮ってあげる」みたいに言ったりすることがありますが、本当は「撮らせていただいている」のだと思います。写真は対象がいないと何も撮れないのですから。写真というもの自体が尊いのであって、撮る人が偉いわけではない、と思っています。

写せなかった人たち、ものたちにどれだけ思いを馳せられるか

二人の息子を撮った作品は『ハルとミナ』という写真集になりました。今、上の子は高1、下の子は中2です。彼らは自分たちの写真を学校の友人に見られたりすることもあるわけです。僕はあまりにも無邪気に子どもたちの姿を撮って公開してきてしまったので、彼らの気持ちを確認するために、折に触れて話を聞くようにしています。せっかく大事にしてきたものだし、ふとした瞬間に壊れてしまわないように、そういうコミュニケーションをしないといけないと思ってます。
子どもに限った話ではなく、写真を撮るというのは時には失礼な行為になるとも思っています。というのは、ほとんどの場合、撮る人が撮りたいと思ったものしか撮らないからです。とても恣意的な表現なんですよね。でも本当はそこに写っているものよりも、写っていない情報の方が多いはずなんです。それを想像してもらえるような表現になっていたらいいのですが、今は社会が混乱している状態で余裕がなくなってきてしまって、それが難しくなってきているように感じています。
写真が身近なものになって、ネット空間にあふれていますが、「映え」という価値観で撮られたものはきらびやかな部分だけが強調されてしまいます。まずは撮る側の人が、写真は恣意的な表現であることを自覚したうえで、写せなかった人やものたちにも思いを馳せることが大切だと思っています。
この先、仮想空間が発達していくと、ますます今の表現を取り巻く状況が加速していくと思います。だからこそ、誠実でいること、切り取られたその外側の存在に思いを馳せること、それが写真を撮るうえでより大切になる、そう思っています。

©Hideaki Hamada

TOP IMAGE ©Hideaki Hamada

写真家
濱田英明

1977 年、兵庫県淡路島生まれ。大阪府在住。自身の子どもの写真を撮り始め、35 歳でデザイナーからフリーのフォトグラファーに転身。2012 年、台湾で写真集『Haru and Mina』を出版、ほか『ハルとミナ』(2014年)、『ひろがるうみ 海遊館のほん』(2016 年)、『DISTANT DRUMS』(2019年)。国内外の雑誌、広告など幅広く活動中。noteの記事などで独自の写真論を発信。

Text: Chiaki Seito

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