おいしいおはなし第59回『キッチン』孤独の底にいる二人に光を見る力をくれたカツ丼

《私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う。》と始まる『キッチン』は、今から35年前に刊行されました。当時中学生だった私たちの間でも話題になり、黒い花柄の大人っぽいカバーの単行本がクラスを巡ったものです。私にとっては、「自分は食が描かれている物語が好きなんだ」ということを自覚した一冊だったように思います。

主人公は大学生のみかげと花屋で働く雄一。でも恋物語ではありません。悲しみと孤独の中にある人が生きる力を取り戻していく再生の物語です。その過程にはいろいろなキッチンが登場します。古いアパートの台所、広いマンションの開放的なキッチン、活気溢れる料理店の厨房、機能的なキッチンスタジオ。
表題作「キッチン」では、おばあちゃんと二人暮らしだったみかげがおばあちゃんを亡くし、ひとりぼっちになってしまったところから物語は始まります。眠れぬ夜を過ごし《冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思想から守った。》と、台所で眠るようになるみかげ。そこへ現れたのが、おばあちゃんがひいきにしていた花屋で働く雄一でした。母と二人暮らしの雄一は、行き場のないみかげにしばらくうちに住んでみないか、と申し出るのです。母というのは、かつて父だったえり子さん。ゲイバーを営む彼女は華やかでエネルギッシュですが、そんな彼女にも辛い別れがあったことが語られます。

みかげは彼らの家の広いキッチンで寝起きしながら、玉子がゆを作りラーメンを作り、それらを挟んで向き合う雄一やえり子さんと対話し、生きる力を取り戻していきます。
続編の「満月——キッチン2」では、雄一とえり子さんの元を離れ料理家を目指して忙しく働くみかげに、ある日雄一から悲劇の連絡が届きます。えり子さんが死に、今度は雄一がひとりぼっちになってしまったのです。その悲しみや苦しさを雄一はこう表現します。《ここのところ、自分でもあんまりまともに食ってないんで、食事に行こうと何度か思った。でも食べ物も光を出すだろう。それで食べると消えちゃうだろう。そういうのが面倒で、酒ばかり飲んでた。》

みかげが、雄一とえり子さんに見守られながらキッチンで料理することで生きる力を取り戻していったの対し、ひとりぼっちの雄一には料理が放つ生の光がまぶしすぎる。みかげにとっても母のようなえり子さんの死は重く、再び彼女を悲しみの底に引き込みます。

そこに登場するのがカツ丼です。みかげが出張先でふらりと入った店の白木のカウンターに出されたカツ丼は、《おじさん、これおいしいですね!》とセミプロの彼女が店の人に声をかけてしまうほどで、《このカツ丼はほとんどめぐりあい、といってもいいような腕前だと思った。だしの味といい、玉子と玉ねぎの煮えぐあいといい、固めにたいたごはんの米といい、非の打ち所がない》おいしさ。このカツ丼の登場で場の空気がパッと変わりみかげの目に力が蘇るのが感じられるのです。完璧なカツ丼を一人で食べたみかげはこれを雄一に食べさせたいと思い、思わず店のおじさんに持ち帰りを追加注文。タクシーで雄一に出前することを決意します。孤独の底で立ち往生する二人に前を向く力をくれたこのカツ丼の登場シーンは、「キッチン」「満月——キッチン2」を通してのクライマックス。読みながら、まるで自分もこのカツ丼を食べてお腹の底から元気が湧いてくるようなそんな気がして、何十年経っても忘れられない強烈な印象を残しました。

私が食べ物が描かれる物語に惹かれるのはきっとそういうところなのだなと、大人になった今読み返して思うのです。

〔材料〕

(1人分)
カツ
 豚ロース肉厚切り 1枚(約120g)
 パン粉 適量
 薄力粉 適量
 溶き卵 1/2個分
 塩 少々
 揚げ油 適量
出汁 100㎖
玉ねぎ 1/4個
酒 大さじ1
しょう油 大さじ1
みりん 大さじ1
卵 1個
ごはん 200g程度
三つ葉 適量

〔つくり方〕
  • 下ごしらえ。
    豚肉は両面を包丁で軽くたたいてやわらかくし、塩をふる。小麦粉をはたき、溶き卵をくぐらせてパン粉をしっかりとつける。
  • 揚げる。
    揚げ油を火にかけ、170℃くらいに熱する。カツをそっと入れたらあまり触らずに2分揚げ、裏返してさらに2分ほど揚げる。きつね色になったところを取り出し、油を切る。食べやすい大きさに包丁で切る。
  • 卵でとじる。
    小さめのフライパンか浅い小鍋を用意し、出汁、酒、しょう油、みりん、くし切りにした玉ねぎを入れて蓋をして中火にかけ、沸騰したら弱火で2分ほど煮る。②のカツを入れ、ふつふつしてきたら溶き卵を回しかけて蓋をする。卵が固まってきたら三つ葉を入れて10秒ほどで火を止める。
  • 盛る。
    どんぶりにごはんをふわっとよそい、3をフライパンから滑らせるようにしてごはんの上に盛る。お好みで七味を添えていただく。

カツを卵でとじてからは手早く! カツの衣が出汁を吸いすぎてしまわないうちに仕上げて、パッと食べましょう。

『キッチン』
吉本ばなな著(福武書店)
吉本ばななのデビュー作。主人公のみかげは唯一の肉親である祖母を亡くし、行き場を失う。祖母がひいきにしていた花屋の店員・田辺雄一からの親切な申し出に、彼女は雄一と母・えり子が暮らす家に仮住まいすることに。その家には大きなキッチンがあり、居心地の良いソファがあった。物語を彩る様々なキッチンが印象的。悲しみと孤独の中から、「食べ物」と「いい思い出」が放つ光をたよりに、再生する人々の物語。

子どもの文学のなかに登場する(あるいは登場しそうな)おいしそうな食べ物を、読んで作って紹介している連載「おいしいおはなし」。第40回までの連載をまとめた単行本『おいしいおはなし』(グラフィック社)は、全国書店または各オンライン書店にて発売中。

文と料理:本とごちそう研究室(川瀬佐千子・やまさききよえ) 
写真:加藤新作
スタイリング:荻野玲子