パリでフラワースタイリストとして活躍する守屋百合香さんが、日々の中で出会ったり使ったりするフランス語の単語をキーワードに綴るエッセイ。暮らす人ならではの視点や嗅覚で、パリの空気やフランスの文化を切り取ります。もちろん、フランスの花事情にも注目。各単語の後ろのn.m.は男性名詞の意味、n.f.は女性名詞の意味。
retour (n.m.)(ホトゥール)[回帰]

年末年始を日本で過ごし、ひと月ほどパリを留守にしていた。重たいスーツケースを階段で四階まで運び、やっと自宅に辿り着く。スーツケースいっぱいに詰め込んできた日本の食材を、一つずつ、キッチンの棚に収める。
到着した翌日から息子の学校が、翌々日から私の仕事が再開した。時差ぼけを抱えながらも否応なく日常に引き戻されていく。火曜日の朝、ランジスへ仕入れに行くと、花の顔ぶれが変わっており、季節が半歩進んだことを知る。ちょうどパリではデザインウィークが始まる週で、仕事も立て込み、気持ちが追いつかぬまま週末を迎えた。
土曜日は、朝9時半に息子と一緒にカフェに花を届け、そのままそこで朝食をとるのが習慣だ。新しくメニューに加わっていたガトーショコラを彼は見逃さず、クリームをたっぷりつけて、ひとかけらも残さず平らげる。まだ客も少なく、柔らかな光が差し込む窓辺の席で、静かで平和な土曜日の朝。
翌日曜日になると、バスティーユにマルシェがたつ。ここでは屋台のクレープが息子の楽しみだ。馴染みのいくつかのスタンドでは久しぶりだねと声をかけられ、短い会話を交わす。花のスタンドには、ミモザが溢れんばかりに積まれていた。長持ちはしない花だけれど、フランス人たちは吸い寄せられるように、次々に売れていく。ミモザの黄色い包みを抱えた人が道じゅうに溢れ、そこだけ太陽が咲いているように温かい。人の流れに乗って歩きながら、パリの時間に再び静かに編み込まれていく。
vélo (n.m.)(ヴェロ)[自転車]

メトロやバスはストライキが多く、時間も当てにならない。自動車も、駐車スペースを見つけるのに一苦労する。結局、この街では自転車が最も快適な移動手段だというのが、長くなってきたパリ生活での一つの答えだ。
昨秋、私も念願の電動カーゴ自転車を手に入れた。後部座席が長くなっているロングテールと言われるタイプで、パリでは子どもを持つ親がよく使っている。日常の足でもあり、花を配達する仕事道具にもなっていて、もはや生活に欠かせない存在だ。そろそろ名前をつけたいとすら思っている。
ファッションウィーク中は、朝息子を幼稚園に送り届けたのと同じ自転車に花を満載に積み込んで、お迎えの時間ギリギリまで、分刻みで配達して回る。普段はあまり行かないチュイルリー公園やヴァンドーム広場など、観光名所も途中で通りすぎる。信号待ちの間、路上でスナップを撮られているモデルたちを横目に、非日常と日常の間をすり抜けているような感覚に、ふとおかしさが湧き上がってくる。しかし信号が青に変わればまた、ひたすらパリ市内を駆け巡る。ファッションウィークの華やかさも生活の重みも、どちらの世界も、同じ地面の上にある。
Bibliothèque (n.f.)(ビブリオテーク)[図書館、本棚]

今、働くパリジェンヌのバッグの中身といえば、熱を帯びたノートパソコンにタンブラー(蕎麦茶がブームの兆し)、手帳、スマートフォン、口紅、そして文庫本が定番だ。キャッシュレス化で財布を持たない人も増えた現代的な面がある一方で、紙の本は今も暮らしに自然に溶け込んでいるようだ。メトロでもバスでも、スマートフォンよりも本に向き合う人の姿をよく見かける。夏はテラス席や公園で、冬は暖かいカフェで、それぞれが黙々とページをめくっている。大人になるほど、読書に耽る時間は贅沢なものに感じてしまうけれど、彼らにとっては日常の一コマになっていることに、いつも少しの驚きと憧れをおぼえる。
私も日本に帰るたび、お気に入りの詩集や短編集をすこしずつ持ち帰る。実家の本棚に眠っていた古い文庫を異国の地でひらくと、遠い記憶と新鮮さが同時に広がる。装丁に惹かれて購入したままになっていたフランス語の書籍も勉強がてら手に取り、読み進めると、大学時代、モディアノの原書をページに印をつけながら苦労して読み込んでいた頃の記憶が蘇る。
フランス語で読むのはもちろん日本語よりも難しいが、だからこそ、文字の間に漂う余白に身体ごと包まれるような感覚がある。昔、アーティストの友人が渡仏したばかりの頃、新聞のわからない単語の部分に穴をあけるという作品をつくっていたのを思い出す。それはフランスで暮らす中で時折突きつけられる孤独や無力感とも重なるけれど、穴ぼこから覗く世界に光を感じる体験というのは、そこまで悪いものでもない。
Hamamélis(n.m.)(アマメリス)[万作]

木蓮に始まり、万作や木瓜、花木のシーズンは、寒さはまだまだ厳しいけれど個人的には最も心躍る季節のひとつ。万作はミモザのように、早春の訪れを知らせる黄色い花を咲かせるイメージだが、実は赤やオレンジの種もある。枝いっぱいに細い花弁を広げる姿は、グレーの空に不意に打ち上がる花火のような、ひとときの高揚感をもたらしてくれる。
白いチューリップと合わせれば軽やかに、黒いカラーを添えれば表情が引き締まる。ブルーのヒヤシンスを合わせた時の、心が目覚める色のコントラストも楽しい。先日、初めて万作を目にしたというパリジェンヌが珍しそうに顔を近づけて、「甘い匂いがする!」と嬉しそうに発見していた。
守屋百合香
パリのフローリストでの研修、インテリアショップ勤務を経て、独立。東京とパリを行き来しながら活動する。パリコレ装花をはじめとした空間装飾、撮影やショーピースのスタイリング、オンラインショップ、レッスンなどを行いながら、雑誌などでコラム執筆も。様々な活動を通して、花やヴィンテージを取り入れた詩情豊かなライフスタイルを提案している。
Instagram:@maisonlouparis
MAISON LOU paris
Text&Photographs: Yurika Moriya