パリでフラワースタイリストとして活躍する守屋百合香さんが、日々の中で出会ったり使ったりするフランス語の単語をキーワードに綴るエッセイ。暮らす人ならではの視点や嗅覚で、パリの空気やフランスの文化を切り取ります。もちろん、フランスの花事情にも注目。各単語の後ろのn.m.は男性名詞の意味、n.f.は女性名詞の意味。
lièvre (n.m.)(リエーヴル)[野うさぎ]
パリ7区にあるロダン美術館は、初めて訪れた10年前からずっとお気に入りの場所だ。
大きな窓から自然光がたっぷり入る館内では、たいてい、ロダンの代表作のひとつ「カテドラル」の前で長い時間を過ごす。一見両手のようだが、よくみると二人の右手であることを息子に教えると、一緒に再現して遊び始める。意外と、バランスが難しい。実生活では安定した愛情を紡いだとは言い難いロダンの人生が、ふと頭をよぎる。なぜこの作品が大聖堂と名付けられたのか、そこに静かな希望もあったのではないかなどと想いを馳せる。
ロダン美術館は、広い庭も大きな魅力。初夏には多様なばらが咲き、秋には落ち葉の積もる庭を歩くのが好きだ。サンドイッチを持参して、ベンチでピクニックすることだってできる。フランス式庭園の植栽も立派で、紫陽花はほんのりと赤く色づき、乾き、茶色く朽ちていくところで、山牛蒡のピンクの茎と、黒く熟した実と隣り合う様も美しい。そんな小さな発見に喜びを感じながらゆっくり歩いていると、不意に何かが視界を横切った。なんと、野生のうさぎだ。何度も訪れている庭だが、うさぎを見たのは初めてだ。観光客には慣れているのか、人の存在にも全く動じず、けれど、走り出すとすぐ見失ってしまうほどすばしっこい。長い月日を経てもなお、思いもよらぬ新しい出会いがある。

seuil (n.m.)(スイユ)[敷居、始まり]
引越しをして、毎週通うマルシェも新居の近くで開拓することになった。何度か足を運ぶうちに、値段と品質のバランスを見ながら、行きつけの店が決まってくる。良いスタンドにはよく地元住民の行列ができるので、それも一つの目印になる。
八百屋にりんごや洋梨が並び始め、季節の移り変わりに気づく。街路樹にはまだ葉が残っているけれど、数週間もすれば裸木となるだろう。寂しさもあるが、グレーの空に繊細な枝振りが際立つ、冬ならではの美しさである。アトリエの隣人の老婦人から、田舎の別荘で収穫したというりんごのお裾分けをもらった。どうやら今年は豊作だったらしい。
夜には初雪が降るという予報を聞き、息子と窓辺で楽しみに待った。しかし、いつのまにか二人とも眠ってしまい、目覚まし時計の音で朝を迎える。慌ててロフトの天窓を開けると、屋根の峰にうっすらと雪が積もっていた。今はもう使われていない煙突跡が屋根の上に残る、パリ独特の風景が広がっている。冷たい風が頬にあたり、眠気が一気に覚める。朝の光はまだ柔らかく、風景のコントラストが淡い。新しい日常風景が、新章の始まりを予感させる。

Échecs (n.m. pl.)(エシェック)[チェス]
パリの冬は日照時間が短く、夕方も5時をまわればすっかり暗くなる。太陽のない分、街に灯るノエルのイルミネーションはより一層華やぎ、温かく感じられる。冬の名物、チュイルリー公園のマルシェ・ド・ノエルも始まり、今年は例年よりも季節の歩みが早いように思える。あるいは、私自身が、時間の過ぎる速さに追い越されるようになったのかもしれない。
アトリエのあるパリ11区のパッサージュ・ロムは、かつて家具職人が多く集まっていたエリアで、今も建築やインテリア関係の事務所が並んでいる。その一角にある、イタリア人のアレックスが営むインテリアデザイン事務所では、毎日夕方になると近所の人たちが集まり、チェスを指すのが日課になっている。対局が長引き、遅くまで明かりが灯っていることも珍しくはない。
パッサージュに住む少年ジョエは最近アレックスにチェスを教わり始め、息子も誘ってもらい、そっと隣に座らせてもらっている。
18時ごろ、陽が落ちて藍色に沈んだ小径に、橙の室内灯が浮かび上がる。歳の離れた二人がチェスを指し、その横で5歳の息子がジュースを飲みながら盤上の駒の動きを追っている光景は、どこか田舎の小さな村のようで、心が緩む。このアトリエに越してきて、もうすぐ10ヶ月。彼らの育む穏やかな時間に少しずつ私たちも溶け込み、そして初めての冬を迎える。

Cyclamen (n.m)[シクラメン]
日本では鉢植えとして馴染みのあるシクラメン。窓辺や庭先に咲いているイメージがあるけれど、ランジス市場には、丈は短いものの、切り花も出荷されている。少しうつむき加減に咲く姿は、鉢植えのときよりもいっそう繊細に見えるが、厳しい寒さの冬にも花を長く保ち、静かに寄り添ってくれる強さも持っている。
先日、友人が節目の誕生日を迎え、ここからまた心新たにスタートしたいと、瞳を輝かせて話してくれた。私は迷わず、シクラメンを手に取った。まっさらなノートのような純白の花弁は、芯の近くはほのかにピンク色を宿していて、優しさと気品を感じさせる。シクラメンだけを束ねたブーケに、彼女の好きなクレマチスも一輪、しのばせた。

守屋百合香
パリのフローリストでの研修、インテリアショップ勤務を経て、独立。東京とパリを行き来しながら活動する。パリコレ装花をはじめとした空間装飾、撮影やショーピースのスタイリング、オンラインショップ、レッスンなどを行いながら、雑誌などでコラム執筆も。様々な活動を通して、花やヴィンテージを取り入れた詩情豊かなライフスタイルを提案している。
Instagram:@maisonlouparis
MAISON LOU paris
Text&Photographs: Yurika Moriya