LIBRARYパリ暮らしの言葉ノート2025.05.01

cahier de vocablaire パリ暮らしの言葉ノート Vol.2 — 守屋百合香

パリでフラワースタイリストとして活躍する守屋百合香さんが、日々の中で出会ったり使ったりするフランス語の単語をキーワードに綴るエッセイ。暮らす人ならではの視点や嗅覚で、パリの空気やフランスの文化を切り取ります。もちろん、フランスの花事情にも注目。各単語の後ろのn.m.は男性名詞の意味、n.f.は女性名詞の意味。

Mur (n.m.) (ミュール)[壁]
私には、長年憧れている壁がいくつかある。フィレンツェの宿泊先で見た壁。何世紀もの時を経るうちに剥がれ落ちたフレスコ画の痕跡が残る、石膏の壁だ。
そして、パリの街並みを彩る、黄色味を帯びた乳白色の石灰岩の壁。19世紀にパリの建材が石灰岩に統一されて以来、この街の景観と、そこに暮らす市民の美意識を支え続けている。
アトリエを持つことになり、まず思い描いたのはこれらの壁たちだった。
もともと、三面ある壁のうちの二面が白、一面がグレーに塗られていた。そのグレーの壁だけ塗り替えようと思い、積年の夢を叶えられるかもしれないと期待に胸を膨らます。
しかし、色見本を取り寄せるうちに、もうひとつ、ある壁の記憶にたどり着いた。東京の実家の土壁である。幼い頃、壁に触れた手につたわる、脆く、不思議な感触。あまり触ると崩れるからと、母に注意された記憶もある。導かれるように、パズルのピースがはまったような感覚があった。
そうして私が選んだのは、「Penequet(ペネケ)」という名前の、石灰塗料。黄みを帯びた淡いグレージュのような色で、ほんのり緑がかっているようにも見える。記憶を静かに繋ぎ合わせ、新しい物語を紡ぎはじめる場所にふさわしい色だと思った。
休日、家族全員で力を合わせて塗料を塗った。すっかり乾いて、陽の光のもとで新しい壁を見たとき、達成感、安堵とともに、少しずつここに刻まれていくであろう、花と過ごすこれからの日々の輪郭、ちいさな痕跡たちを思った。

Mardi (n.m.) (マルディ)[火曜日]
ここ数年、若いクリエイターたちが集まり始めている、19区のビュット・ショーモン公園エリア。その人気を牽引しているのは、一軒のカフェだ。「MARDI」という名前は、火曜日という意味だが、実はオーナー夫妻のMargoとAdi、二人の名前から付けられている。
カフェが単なるコーヒーショップではなく、クリエイターたちの集まるコミュニティスペースであり、そこから新しいムーヴメントが生まれていくというのは、よく考えてみればパリらしい文化だ。古くから、パリのカフェには哲学者や小説家、画家たちが集まっては夜な夜な議論を交わし、創作が生まれてきたという。時代を超えてなお、その文化を継承するカフェが、私はとても好きなのである。
週末、「MARDI」で、パティシエの夫と一緒にイベントを開催する機会があった。夫はお菓子、私は春のブーケを持ち寄り、同じテーブルに並べた。夫が今回持ってきたのはバターサンド。サブレにバタークリームを挟んだバターサンドというお菓子は、日本では有名だけれど、意外にも、フランスには存在しないものだ。皆新しいものへの興味が高く、夫は次々と質問攻めにあっていた。作り過ぎたと言っていたのに、気がつけば完売していて、フランス人のスイーツ愛にはいたく恐れ入った。また、友人が、「フランス人は洋服などモノを買うときは倹約家だが、食や花、消えるものにはお金を使うんだよね」と話していたことも思い出される。集まる人々のエネルギーに刺激を受け、濃く、充実した時間があっという間に過ぎた。

Passage (n.m.) (パッサージュ)[通過、小径]
木蓮、万作、そして桜。ランジス市場でも、花木が次々に現れて、選ぶ楽しみがいっそう増す時期だ。まだ肌寒さが残る頃にも、真っ先に木々が花を咲かせ、季節の移ろいを教えてくれる。フランスでよく目にする桜は、ソメイヨシノよりも吉野桜に近い。八重咲で、ぽってりと丸みのある桜餅色の花は、どこか愛らしく、そして華やかだ。
今年は4月に2週間だけ一時帰国し、運良く日本の桜の開花時期にも間に合った。箱根を訪れた際、遠くの山間にぽつりぽつりと淡白いかたまりが見え、ああ、桜だと気がついた瞬間、自分でも驚くほど、胸をつかれていた。またこの季節に、故郷に帰ってこようと、花に願わずにはいられない。
パリに戻ると、桜から藤の花へ、新緑の季節へと変わっていた。
アトリエのあるパッサージュ(小径)に踏み入れると、景色が一変していた。花が咲いて初めて、小径の奥に聳えていた大木が藤だったのだと知った。そんな調子だから、いつもの街を散歩していても、目が、感情が、忙しい。
パリの街路樹、マロニエたちも花を咲かせ始めた。もうすぐ、短く、この世で最も美しい夏が来る。

Myosotis(n.f.) (ミオソティス)[勿忘草]
勿忘草(わすれなぐさ)を可愛いと思えるようになったのは、いつからだろう。
以前はどこか子どもっぽい花という印象を持っていて、少なくとも二十代の頃には目を留めていなかったような気がする。
それが最近では、好んで手に取るようになっているのは、自分が歳を重ね、感覚にも変化があったのだろう。特に、ランジス市場の生産者スタンドに出ている勿忘草に出会ったことが、大きなきっかけだったのかも知れない。他で流通しているものとは佇まいがまったく違って、より伸びやかで生き生きとしている。そして見た目の儚さとは裏腹に、驚くほど長持ちもする。
今まであまり手に取ってこなかった花をどう使うか考えるのは、新鮮で、アドレナリンが湧いてくる。ブルーのムスカリ、ペーパーホワイトの水仙と勿忘草を合わせてココ・キャピタンに送った花束は今でもお気に入りの一つだし、昨年は真っ赤なスイートピーと合わせた。今年は、潔く一種活けも楽しんでいる。一種だからこそ、さらに一輪一輪と向き合い、ネトワイエ(葉の処理)を徹底して丁寧に行なうことがポイントだ。滝のように流れ落ちる勿忘草の影が花台にうつるのを眺めていると、子どもっぽいどころか、大人の知性や気品すら感じられる。

フラワースタイリスト
守屋百合香

パリのフローリストでの研修、インテリアショップ勤務を経て、独立。東京とパリを行き来しながら活動する。パリコレ装花をはじめとした空間装飾、撮影やショーピースのスタイリング、オンラインショップ、レッスンなどを行いながら、雑誌などでコラム執筆も。様々な活動を通して、花やヴィンテージを取り入れた詩情豊かなライフスタイルを提案している。
Instagram:@maisonlouparis
MAISON LOU paris

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