LIBRARYInnocent View2021.06.14

Innocent View 志賀理江子

「原風景っていろんなものがぐちゃぐちゃに混ざった生理的な感覚のようなもの」志賀理江子

——フィールドワークに基づき演劇的なアプローチで制作する作品は、見る人にそのイメージが何を意味するのかを考えさせる。自身の体験から生じる問いや思考に対する行動として写真を撮り、そこに写ったイメージに対して向き合うことが作品であると語る写真家・志賀理江子さんにとっての「INNOCENT VIEW」とは?——

便利な生活に何か、どこかで違和感があった

 原点とか原風景ってよく言うんですけど、私にとってはひとつの何かじゃないんですよね。もっと何かいろんなものがぐちゃぐちゃに混ざったような、生理的な感覚みたいなものだと思っています。
 私が生まれ育ったのは、もう経済成長もしきった後のバブル、そしてそれが緩やかに崩壊していくような時代でした。育った家が新築の家だったんですよ。その家の中の風景をちょっと“ハリボテ”みたいな感じに思っていました。いわゆる“便利な生活”っていうものがすでに完成しきった後の子ども時代ですから、蛇口をひねれば水が流れてくる、スイッチを押せば明るくなるというのは当たり前だったけれど、そういうのが何か不思議に思えたんでしょうね。
 子どもの頃って何も知らないので、本能的に世の中を見れる時期だと思うんです。ゆえに、知らないところから流れてくる水とか、スイッチのオンオフで簡単に明かりがついたり消えたりっていうものに、何かどこかで違和感があったんじゃないかなと思います。
 子どもの頃に抱いていた違和感みたいなものは、最近になってようやく言語化できるようになりました。そういう環境の中で生まれ育った自分の身体性というものが、だからカメラっていう機械と相性が良かったのだということも、改めて感じたことのひとつですし。要はボタンを押すだけのカメラっていうのは、違和感を感じながらもどこかオートマティックな感じに慣れている私の身体とは、とっても相性が良かったわけです。
 いろんなものが混ざり合った感覚のような私の原風景のひとつに、寝顔があります。幼少期に、昼寝している母や起こしに行った弟の寝顔を見て、何かふっとわれに返る、そんな感じがあったんですね。
 眠っている人は母や弟であることには間違いなんですが、起きている時とは全然違う人に見えて「誰なんだろう?」と思ったりもしたし、「死んでるんじゃないよね?」と不安になったりもしました。目を閉じている顔はふつうに考えたら死に顔に近いわけだし、まだ死に接したことのない子どもの頃はそんなことは知らなかったわけだけど、どこかで死を連想させたんだと思います。
 少し話はそれますが、同じ頃、仏間に飾ってあった遺影がすごい気になっていました。これが写真的体験の原点だったと思うんですよね。その人たちが誰だかは全然分からないんだけど、なんとなく自分と関係あるようなことは分かっていて、遺影を見ながら、死んだらどうなるのかとか、そういうのを意識し始めると同時に、何か得体の知れない“イメージ”としてずっとどこかにあったのかなと思います。

 この眠る写真は5年ほど前に撮った弟です。本当に寝ているところを撮ったわけではなく「役者になったつもり」で、とはいえ実際眠ってもらって、撮りました。眠る人の顔はわりと前から撮っていますね。要は目を閉じているっていうことが大事なんです。その目を閉じている人がどういう状態にあるかとか、どんな夢を見ているとかって、想像することでしか分からない。悲しい気持ちの時に寝てる人の顔を見たら「死んでんじゃないか」と思ったりとか、もしくはポジティブな感じの時に見たら「なんかいい夢見てんじゃないか」とか、見え方が変わる。だから眠りの顔って「鏡」のようだなと思ったりもしています。
 どんな写真でもそうだと思うんです。一輪の花の写真を見て、悲しいと思うかうれしいと思うか、それはその見る人の心の状態が映ってしまうということだから。
 もっと言うと、写真だけじゃないわけです。私、「石」のワークショップをやってるんですが、河原にみんなで行って、例えば「自分の墓石にする石」とか「身代わりの石」とか「相棒の石」という、その時どきのテーマで石を拾うんですね。拾ってきたらみんなで見せ合って、何でその石を拾ったかっていうことを話すわけですけど、そこでの話はほとんど石と関係ないことが多い。眠っている人の顔に何を見るのかっていうのと一緒で、石に違う物事を見ている。「こうありたい」という願望みたいなものが投影されたりとか。
 例えば、最初に限りなく球体に近いような石を探すんだけど、途中で「いや自分は丸くない」って気づいて、複雑な形の石を最終的に選んだり……その人の脳裏に描かれているものや考えていることが、拾った石に見えてくるんですね。
 だけどこれ、幼ければ幼い子ほど趣旨が効かない(笑)。石は拾いまくるのだけど、「選ぶ」ことに大きな理由はないっていうか。好き嫌い、くらいなのかな。とにかくたくさん拾っても、テーマに燃えないっていうか。自由、本能的というのか。
 私は人間がどんなふうにいろんなものを認識し始めるのかということに興味があって、自分に子どもが生まれた時にその過程をもう一度追体験できるかも、と期待したんです。でも実際には慌ただしくてそれどころじゃなかった(笑)。分かると思ったけど、全然分かんないです、子どものこと。ただ、すごい存在だなとはひたすらに感じてます。
 最近、子どもに音楽レコードのジャケットを見せて「これどんな感じですか? 一言お願いします」って聞くのが流行ってますが、けっこう面白いことを言います。ちなみに、この眠る写真は「ミッキーマウスの耳が爆発したところ」だそうです。

写真家
志賀理江子

1980年愛知県生まれ。2000年東京工芸大学写真学科中退後渡英、2004年Chelsea College of Art and Designを卒業。写真集『Lilly』『CANARY』の2冊で2008年に木村伊兵衛写真賞を受賞。作品制作を機に移住した宮城県で東日本大震災に遭う。被災しながらも制作を続け、2012年にせんだいメディアテークで展覧会「螺旋海岸」を開催。2017年4年ぶりの写真集『Blind Date』を刊行し、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で同名の展覧会を開催。2019年3月〜5月には東京都写真美術館で「Human Spring」展を開催した。

Photographs ©️Lieko Shiga

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