パリでフラワースタイリストとして活躍する守屋百合香さんが、日々の中で出会ったり使ったりするフランス語の単語をキーワードに綴るエッセイ。暮らす人ならではの視点や嗅覚で、パリの空気やフランスの文化を切り取ります。もちろん、フランスの花事情にも注目。各単語の後ろのn.m.は男性名詞の意味、n.f.は女性名詞の意味。
regard(n.m)(ルガール)[視線、まなざし]
8月。太陽の光に呼応するようにして、街の緑が濃くなってきた。アトリエに向かうまでの小径を、あの花が咲いたねなどと息子と指差しながら歩く。
アトリエで作業中、隣にいた息子がカメラを貸して欲しいと言う。花を撮ってきてあげると。絶対に落とさないでと念を押して手渡すと、飛び出していったきり、帰ってこない。また近所のおじいさんとチェスでもしているのかしらと思いながら花を束ねていると、しばらく経って、一仕事終えたとでも言わんばかりの得意げな表情で戻ってきた。
帰宅してからカメラロールを確認すると、おびただしい量の写真が出てきて驚く。よく見れば、鉢植えの花や植木だけでなく、どんなにちいさな雑草までも丁寧に写真におさめられていた。こんなにも、見落としていた景色があったのか。同時に、私は仕事に慣れすぎて、花瓶に活けられた花ばかりを花と呼ぶようになってしまったのではないだろうかと、胸がちくりとする。たいていは指の影が入ってしまっている写真たちをスクロールするたびに、息子の眼差しのあたたかさに抱きしめられるような気持ちになった。

signature(n.f.)(シニャチュール)[署名]
この夏、ある一歩を踏み出した。長く個人事業主としてやってきた花の仕事を、法人化したのだ。これまで事業を拡大したいとも、従業員を増やしたいとも思ったことはなかったし、ましてや会社にするなど想像したことすらなかった。
しかし、念願のアトリエを構えるなど、大きな変化が続いた昨年を経て、今年は「整える」をテーマにしている。仕事をする上で避けられない難解な税制や法律はちんぷんかんぷんで、調べても埒が空かず、時間も気力も奪われていく。人に頼れるところは頼り、心身を整え余白を守り、より良い状態で花に向き合いたい。その想いが強くなり、法人化に踏み切った。
弁護士から説明を受けると、想像していたよりもずっとシンプルなステップで法人化できることを知った。とはいえ、散りばめられた専門用語や税率の説明などは、日本語で聞いても頭が追いついていかない。法律事務所の一室で、濃いコーヒーをぐびぐび喉に運び、眉を顰め、後から見返してもてんで意味のわからないメモを取りつつなんとか喰らいつく。
長いリストと睨めっこしながら、いくつもの書類にサインをして、ひたすら次、次と、こなしていった。
7月9日の夜、弁護士から会社設立完了を知らせる一通のメールが届いた。そこでやっとハッと立ち止まり、じわじわと感情が追いかけてきた。昔のことを振り返らないたちだけれど、いつのまにか随分遠くまで来てしまった気がして、足元を見つめる。設立が完了したところで、リストはまだ終わりが見えないし、明日から何かが劇的に変わるわけではない。日々の実感だけが確かなもので、それはまだ、続いていく。

matin(n.m.)(マタン)[朝]
気候のいい季節だけ、週末の朝に開かれるマルシェがある。パリ郊外のオーベルジュLe Doyenné(ル・ドワイヨネ)で、パンやコーヒーを楽しめるのだ。
以前宿泊した際、何よりも記憶に残ったのが朝食の時間だった。目覚めてすぐに階下へ降りてゆき、広い庭に囲まれ、あたたかな食事に満たされる朝は、あまりにも幸福だった。またあの時間を過ごすことができると思うと嬉しくて、暑さの落ち着きそうな週末を見計らい、友人を誘って出掛けた。
普段よりもすこし早起きした日曜日。1時間に1本しか出ないRERに息子とホームを走って滑り込み、車窓の景色を眺めるうち、すっかり遠足気分になる。
マルシェに到着すると、テーブル一杯に焼きたてのパンやタルトが並んでおり、目移りしてつい頼みすぎてしまう。お腹が膨れたあとも、陽が高くなるまで庭を散歩して過ごした。
畑で、ズッキーニの黄色い花を見つけ、洋梨の木の不思議な仕立て方に驚く。いちじくの葉のかたちがかわいいと写真に撮り、トマトにたくさんの色や種類があることを知る。立派な鶏たちの行進に、おそるおそる近づいてみる。鳥のさえずりが聞こえて、木の上の巣を見つける。この日曜日をずっと留めておければいいのにと感じる。
帰り際、「期間限定と書いてあったけれど、いつまで?」とスタッフに尋ねると、彼は空を仰いでみせて「決まっていないよ、季節のいい間かな」とおどけた。

gentiane(n.f.)(ジャンシアンヌ)[竜胆(リンドウ)]
広島に住む義父が、竜胆の花を育てていた。趣味というよりも生産といったほうが近いほど本格的で、地元の道の駅で販売して、人気もあったらしい。結婚式の日には、広島から東京まで、腕から溢れるほどの竜胆を持ってきてくれた。丹精込めてつくられた、品のいい竜胆だった。だから、義父から、もう竜胆づくりをやめてしまったと聞いたときは寂しかった。
フランスのランジス市場にも竜胆は流通しているが、あまり手に取ったことがなかった。竜胆の青の色は、意外と組み合わせるのが難しいと感じていた。菊と同様、和花としての印象が強かったせいもあると思う。しかし、義父の話があったせいか、自分の手で竜胆を美しく、そして今まで見たことのないようにして、活けてみたくなった。明るいグリーンの栗の枝に、一輪だけ竜胆をのぞかせた。あの日山で見た、まぶしい光に映える青の景色が脳裏をよぎって、戻らない歳月の影を、か細い糸で繋ぎ止められたような気がした。

守屋百合香
パリのフローリストでの研修、インテリアショップ勤務を経て、独立。東京とパリを行き来しながら活動する。パリコレ装花をはじめとした空間装飾、撮影やショーピースのスタイリング、オンラインショップ、レッスンなどを行いながら、雑誌などでコラム執筆も。様々な活動を通して、花やヴィンテージを取り入れた詩情豊かなライフスタイルを提案している。
Instagram:@maisonlouparis
MAISON LOU paris