Lifestyle magazine
for modern family

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DATE 2018.07.27

第12回:長島有里枝より
子育ての「正しい」は簡単には白黒つけられない。

女性は子どもを産むとみんな「はは」になる。当たり前のことだけど、みんなそれをどう受け入れ、日常を送り、自分の生き方を新たに手にするのでしょうか。この連載では、クリエイターとして活躍する二人の「はは」と「ハハ」に手紙をやりとりしていただきます。それぞれの悩みや愚痴、ときに葛藤、あるいは日々の喜びから、あなたや私の「はは」としての生き方のヒントがみつかるかもしれません。

長島有里枝さんから山野・アンダーソン・陽子さんへ。

 

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陽子さん

 

おはようございます、金曜日の朝です。日本ではドラマの夏クールがようやく始まり、各テレビ局が新しいドラマの第一話を無料動画配信サイトにアップし始めています。普段、アイロンがけとか夕飯の支度をしながら、ラップトップでドラマを流し見しているのですが、クールとクールのあいだは観るものがなくてつまらないです。家族はテレビをつけると手が止まるのですが、わたしは平気で家事ができます。ちなみに、好きなジャンルは刑事ものです。陽子さん、日本のドラマとか恋しくならないですか?

 

スウェーデンの子育てについて拝読しましたが、やっぱり考え方が違いますね。わたしもしばらくアメリカにいて、アメリカ人の子育ての現場にもときどき立ち会ってきましたが、なにが大事とされるかは日本と違うし、同じアメリカでもエスニシティによってまた、考え方がずいぶん違うんだと思います。虐待の可能性を疑って親を通報する、という概念はアメリカでも広く浸透しています。このことはすごく難しい問題だと思います。子育てでなにが正しいのかは、簡単に白黒つくものでもないんじゃないかと思います(例えば、赤ちゃんを布でぐるぐる巻きにして育てる文化がありますが、それを西洋の人が「虐待」とみなしていいのか、とか)。

 

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェというナイジェリアの作家を知っていますか? 彼女の小説『アメリカーナ』は、アフリカ系移民の登場人物たちがアメリカ社会に抱く違和感や戸惑いをとてもよく描いているのですが、そのなかに、子育てに対する価値観の違いがわかるくだりが出てきます。主人公イフェメルの伯母ウジュが、食料品店で自分の言いつけを守らない息子のダイクを叱るシーンなのですが、ウジュ伯母さんは店にいる白人のレジ係の前では息子を軽く諌めるだけにとどめます。でも、車に戻ってからダイクの耳を引っ張り、叩かれたくなかったら二度とするなと怒るのです。ウジュ伯母さんは、アメリカでは子供が“つけあがる”と嘆き、ぶたれそうになると警察を呼ぶと言って母親を脅す友人の娘の話を「あの子のせいじゃないけど」と断りながらイフェメルにします。

それから、ジンバブエ出身のノヴァイオレット・ブラワヨという作家も『あたらしい名前』という小説の中で、アフリカからアメリカに移住した少女ダーリンが結婚式で好き放題に振舞っていた小さな男の子を“わからせる”ために叩き、その場を凍りつかせるシーンを描いています。叔母さんの元彼で新郎のドゥミはアフリカ人、新婦は白人で、叩かれた男の子は新婦の連れ子です。ドゥミ側の参列者はダーリンと叔母さん一家だけで、ほかの招待客はほぼ白人であることも描かれます。どちらの小説も「状況」を描写しているだけで、その良し悪しは語っていないのですが、これらは小説、つまりフィクションという前提があるからこそ書けることなのかもしれない、とも思います。わたしの感想ですが、著者がそれぞれにこの描写を小説に盛り込んだのは、ひとつにはマイノリティの文化や社会の西洋的価値観との「違い」を示したかったことと、もうひとつは、人々に考え、議論することを促すきっかけを作りたかったからなんじゃないかと思います。アディーチェはフェミニストとしての活動でも知られる人ですが、ものごとにたったひとつの物語しか与えないことの危険性についてのスピーチで有名です。スウェーデンの人たちの、子供に手をあげる必要はない、という考えかたは間違えていないと思います。その一方で、これらの小説で描かれるような状況に、どこか共感する自分もいます。この共感は、子供に手をあげることを「いい」と思っていることを意味するわけじゃないのです。社会や自分自身のなかには、矛盾するいくつもの考えや気持ちが存在するということ、矛盾を排除して、たったひとつの絶対的にパワフルな正しい物語を導き出すことに対して、警戒心がある、という感じです。

 

 

話が前の手紙に戻りますが、夫婦間の平等を、時間やパーセンテージで計るという方法にもすこし、腑に落ちないものを感じています。そんなにきっちり、数字で分けられるものなのかな、って。ひとつの基準としては概ねいい方法だと思うのですが。そもそも、どうしてわたしたちは、子供と一緒に居られる時間を奪い合うのではなく、そこから離れて「自由」でいられる時間や、「自分の仕事」ができる時間を確保するほうに躍起になるんでしょうね? それはもう、“ケアワーク”というジャンルそのものに、わたしたちがなんらかの腑に落ちなさを感じる条件が内包されている、ということの証左なんじゃないかと思います。それから、平等って法律的、数字的な正しさの追求だけでは足りなくて、一人ひとりが個別に育む他者との関係性の中で、自分は幸せだと思える状態のようなものでもあると思うんです。この言い方でいいのかもよくわからないのですが、それが自分の目指すフェミニズムなんじゃないかなというようなことを最近よく考えます。子育ての時間をきっちり半分にして、家事の分担をきっちり半分にして、それでも自分は幸せじゃないと感じるパートナーを持つことだって、当然ありえます。そんなときは、正論ではなく相手の気持ちに寄り添える人でありたいし、わたし自身もパートナーにそういう心構えを望みます。人は弱さや強さ、生まれおちた環境、感じかたや能力や身体そのものに至るまでみんな違うのだから、平等もきっと、それぞれにとってバラバラなかたちをしている気がするんです。

 

陽子さんも書かれていたように、子育ては楽しいだけじゃなくて過酷な仕事でもあるのに、お母さんは愛とか母性とかそういう“資質”で、無償で、きちんとこなすのが当たり前とされていますよね。賞賛も対価も得られないうえに、それを担う人には多かれすくなかれ精神的、経済的負担が強いられる。チャリティでさえ「イメージ戦略」かもしれないようなご時世に、無償で人に奉仕することを自分に納得させる“ポストモダン風の”価値観って、どんなものがあると思いますか? 「子供を育てる」という営みに限らず、強者の論理を「正義」として押しつけるようなことのない場で、議論そのものがもっとなされる必要があると、わたしは思います。

スウェーデンには、叩かないことは当たり前とみんなが思える文化的社会的背景があるからこそ、人々がそのように振る舞えるんじゃないでしょうか。陽子さんは二つの文化をバックグラウンドに生活しているのだから、そのあいだで葛藤も多いと思いますが、息子さんとの関係性はとても素敵だと思うから、ときどき感情的になることがあったとしても心配しすぎず、日本の友達と話したりして乗り越えられるといいですね。アメリカでは最近、トランプ政権が法のもと、移民の子供たち(乳飲み子まで)を親から引き剥がして何日も隔離しました。そんなことが数日でも許されるわたしたちの社会の正義感にも矛盾は多いことについて、考えさせられます。

 

有里枝

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次回更新は8/10(金)の予定です。ガラス作家の山野・アンダーソン・陽子さんからのお返事です。