Lifestyle magazine
for modern family

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DATE 2018.09.20

08 想像力による恩恵

グラフィックデザイナーの長嶋りかこさんが、妊娠して日々変化する体から、今まで見えなかったことに日々出会い、新陳代謝していく景色を綴るエッセイ。
思うように動けないとか、痛いとか辛いとか、そういうマイナスの状況って、自分に違う視点をくれて良い機会だなと、つくづく思う。
その立場になってみないと実際のことは分からないからこそ、それぞれに「想像力」が必要なのだと思うけれど、どんなに想像しても、当の本人と同じく感じることはやはり無理だ。大げさでもなんでもなく、この世の平等なんてむしろ虚構、当事者のように感じることは困難なこと、だからこそ、想像して、想像して、“平等”や“平和“や”思いやり”を、実践しようとするのだと思う。
以前男友達に、これまでの人生で自分の身に起こった悲しい出来事の話をしたときがあった。吐き出したくてふいに話をした私に、彼も同じく自分の身に起きた悲しい話をしてくれ、彼はこう言った。子どもがアイスを道に落としたことと、おとなが信頼する大切な人に裏切られたこと、どちらが悲しいかと言えば、そんな当事者にとっての悲しみは他の人のそれとは比べられならないように、悲しみって相対化するのが難しいよね、と。たしかにそうだね、だからこそ誰かの痛みとか悲しみを理解しようとする姿勢を諦めちゃいけないんだよね、などと話しながら歩いた時間が、今もとても印象に残っている。
妊娠、出産、流産、中絶、不妊などの、特に男性が身を以て体験することはいまのところないこれらのことに関しても、同じことが言える。例えば働く女性がいくらマッチョな男性のようにハードな仕事をしていても、いざ妊娠をして体に起こる変化は男性のようになることは何一つなく、女性ゆえの変化が身体と精神に起こり続けるが、その時働く男性は働く女性に対してどこまでそれを理解することができるのだろう。ずいぶん前に「おまえみたいに働くから少子化が進むんだよ、女が働くから変なことになるんだ」と同世代の男友達に言われて愕然としたことをふと思い出す。彼はちょうど専業主婦のパートナーが子どもを産んだばかりだった長い長い動物の歴史のなかで動物的に子孫を残すための判断をするならば、彼の発言は正しいとされるのかもしれないけれど、人間には相手がいて自分がいてはじめて人間という漢字になるくらい相手あってこその生き物、不平等ゆえに平等を夢見て、残酷ゆえに平和を夢見て、権利が無いゆえに権利を求め、そうやって社会を作ってきたのは、人間が社会的な生き物だからだ。好きな仕事を続けることはもちろん、それにより経済的に自立することや、子どもを持つかどうかの決断、自分の希望とは別にこどもを持つ身体的な可能性の有無など、それぞれの状況と、生き方のスタンスがあるのだから、きっと迷ってそれぞれの理由で結果的に選んだり受け入れたりした道は、尊重したいし尊重されるべきと思う。自分の選択の正しさを“自分がそうだったから”という理由だけで振りかざす人がいるけど、そういう場合は別の選択肢の話をしても何も通じなかったりするので、ああそうか、一方通行の情報ではなく多面的な情報を各々が積極的に自分に入れることで、多様性ってものが実現するんだなと感じる。その人にとっては別の状況を知る機会がなかっただけだったり、選択肢のない時代や環境を生きてきたからその他の選択を信じられないだけだったりするのだろうけど、その対話にお互いの歩み寄りが全く無い場合、正直精神的にもしんどくなってしまうから、諦めずに「伝える」って大変&「伝わる」って難しいことだなと思う。
前にここで“導線”の話を書いたけど、わたしがいま、自分の思い通りにスタスタ動けなかったり恥骨や関節の痛みを伴っていることで、いくら老人の足腰のつらさや障がいを持つ人の日々の導線の苦労を想像したって、そんな想像は実際同じ状況になってみないと本当のことは分からないことだらけだ。前に在宅医療の草分け的存在として尽力して来た早川一光医師のドキュメンタリーを見たことがあるのだが、その医師自身がいざ老人となり医療や介護を受ける身になって、自身が推し進めた自宅療養をする生活のなかで、彼が口にしたのは「こんなはずじゃなかった」だった。自分が良かれと思って開拓してきた在宅療養は、いざ自分がその立場になってみて初めて身をもって分かる痛みや苦しみがあったようで、それまで当事者ではなくても医師として他人の苦しみを想像し寄り添ってきた彼ですら、それでもやはり当の本人にならなければ分からないことだらけだったのだ。分かろうとすること、想像すること、寄り添うこと、それらをけして諦めたくはないし、きっと彼の開拓によって救われた人々も沢山いたのだと思うけれど、彼の姿は「想像力の難しさ」を物語っていた。同様に、シリアの難民キャンプで教育支援を行う松永晴子さんのドキュメンタリーをみた時も同じことを感じた。彼女は「寄り添う」という言葉が嫌いだと言っていた。体当たりでシリアの子どもたちの教育に尽力する姿は誰がどうみてもまさに寄り添っている。しかし現地に入り子供達と対峙し続け、現実を理解しようとし続け、テレビなんかでは映しきれない連綿とした日常を共にし、そのうえで、他人に寄り添うその難しさを真摯に受け止めている彼女の姿勢が、ずっしり伝わってくる言葉だった。
当事者“以外”の人々がどれだけ想像力を働かせることができるかということが、当事者達の環境を改善させたり選択肢を増やすことになっていく。どんなに相手を分かろうとすることが困難だとしても、そうやって相手を理解しようと試みてきた人々の軌跡が、いまの時代の選択肢を作っているのだと思う。自分の状況や思考や環境以外を“知らない”ということは、それはそれで幸せなのかもしれない。だけど知らないこと自体を正義として振りかざす姿勢をたまにみかける時は、それは違うなと思う。だって「知らない」ということにより“生きづらい他者”がいることさえも、知らないことになる。色んな選択や色んな生き方があることを知ることは、その生き方に対して良い悪いをジャッジすることではなく、色んな生き方や状況があることをまず受け入れ物事も人も社会も多面的であることを理解することであって、その地味な作業は、一方的な状況を作らず多様であることを可能にするのではないかと思う。
技術や科学や芸術や文学がそういったことに尽力し問いかけてきた恩恵を受けて、わたしの今の生活の選択がある。先人たちの想像力の轍を歩いている。そしてそういった専門分野の先人たちだけでなく、各々の“想像力”がおおらかな社会をつくっていくのだと思う今日この頃。
予定日まであと30日、さらに日々腹重すぎですけど、わが子よ腹のなかの居心地は、どんなもんですかね。