
「Barbie loves TOKYO SKYTREE RUNWAY」東京スカイツリーとバービーがコラボレーション
九州の南のほうにある実家にたまに戻ってはいるけれど、夏休みにというのは八年ぶりのことだ。弟の家にあかんぼうがやってきたのでできるかぎり産まれたてのうちに会っておきたいと思って、いちばん現実的なのがこの夏休みだった。そういう目的がなかったら、混み合うこの時期にはたぶんまた戻らなかったと思う。
すっかり忘れていたけれど日中の陽射しは尋常ならざる強さであって、明度の高すぎる空に映える真っ赤なブーゲンビリア。ワシントンパームのつらなる海岸沿いを走っていると、あまりにもザ・夏! という景色なので、おのずから浮かれ気分になってしまう。
ためしに二歳になりたてのこどもを砂浜におろしてみると、短い腕を狂ったように振り回しながら海の中へズンズン進んでいく。波が寄せるたびみずから突っ込んでゆき、きいたことのない異常に甲高い歓喜の声をあげるのだった。子にとってはおじいさんであるところの還暦を過ぎたわたしの父に命じて波打ち際に穴を掘らせ、その穴にじぶんが足をとられて転んでは大笑いし、穴が波にさらわれてしまってはまた大笑いし、だれかに体を乗っ取られたみたいに馬鹿笑いがとまらない。なにがそんなに面白いかね、と思いながらパンツの裾をたくし上げて足先をつけてみると、陽射しでいいあんばいに温まった海水はおもいがけず心地いい。海も川もプールもありがたみなく、来る日も来る日もプカプカ浮いてばかりいた夏の日々を思い出す。心地よい気怠さを抱えて家に帰ると、ちゃちなかき氷機で製氷機のいびつな氷をガリガリ削って、ここぞとばかりにたっぷりの練乳をかけて食べるのが好きだった。
こどもの水着を脱がせるとオムツの中のすみずみに砂がいきわたっていた。まるはだかになって冷水を浴びている間もずっと笑いころげていて、車に戻ってたちまちバナナを一本食べ終わると、「ウミー!!」とひと声叫んで次の瞬間には眠ってしまった。
結局、連日どこかの海へいくことになり、そしてまた花ざかりの一面のひまわり畑を歩いてみたり、たらふくスイカを食べてみたり、ふにゃふにゃしたあかんぼうと一緒に弟宅のベランダから花火大会を満喫したりしているうちに最後の晩。おさななじみのひとりが建てたばかりの家に出向いた。
昔むかし、三組の親が新設の団地で出遭って、合計でこどもが八人産まれた。わたし達は、三家族でひとつの大きな家族みたいなものだった。2DKの互いの家をいつでも行き来し、親に用事があるときはどちらかの家で一緒にごはんを食べさせてもらい、きょうだい達の二段ベッドで一緒に眠った。目が覚めたら、団地の庭にはえるグミの木に登って実をとって食べたり、山に入って基地ごっこをしたりした。こども達が小学生のうちにそれぞれ団地から離れたけれど、メールもラインもない時代に、親達は三家族の関係を保ちつづけた。こどものうち幾人かは県外に出たけれど、誰かが戻ってくるとなれば、三家族のどこかの家に親も子もそのこどもも、その時地元にいる全員で集う習慣は変わらない。三家族、三世代ともなると総勢二十人ほどにはなるわけで、まあまあの数だし普段はほとんど連絡を取り合わないのに、ふしぎと気づまりになることもない。今回はじめて、開催地がそれまで集っていた三つのうちの実家ではなく、「こどもの家」になったわけだった。
親のひとりは何十年も保育士をしており二歳のこどもも二か月に満たないあかんぼうも余裕のあやしぶり。小学生になるこども達もちいさいこどもを取り合うように遊んでくれるので、わたしは目の前にぎゅうぎゅうに並ぶ鶏刺しや牛のたたきなんかをつまみに悠々と呑んだ。そのうち花火をしようということになって外へ出ると、本式の花火大会の晩には爆発音に恐れをなしてコワイコワイと号泣しながら絶対に光を認めようとしなかったこどもが、けれども、大人のひとりを従えて左手を腰にあて仁王立ちしたまま満足気に線香花火をつまんでいるのだった。
ぽとり。橙色の火の玉が落ちると、子は水を張ったバケツに燃えのこりを放るなり、両足をそろえて跳ねながらあたらしい花火をとりにゆく。
すこし年上のこども達と並んで花火を選ぶ子の背中はご機嫌そのものだった。
ああ、きっとこんな風にじぶん達も育てられたのだろう。
ふいにもうすぐ夏休みがおわってしまうということがものすごいスピードで心に迫ってきて、いまでは地元に滞在するということは帰省ではなく、旅になってしまったのだなとわかった。
滞在中はずっと、たのしいことだけで埋め尽くされていた。それは今のじぶん達の生活とはずいぶん遠いところにある、とうめいな上澄みの時間だった。
おさななじみ達は男も女も仕事をしながら子の学校や地区の役員をし、家を建て、親の様子を気にかけながら、地に足をつけて今日も明日も朗らかに暮らしてゆくだろう。そしてこの先も気まぐれにやってくるわたし達を、曇りのない優しさでもって迎え入れるだろう。どこかうしろめたいような気がするのだけれど、うしろめたいだなんて感じることじたい、傲慢だとも思う。旅人は旅人として、たのしみ尽くしてその幸福をそっくり持ち帰るのが仁義というものだろう。
大人たちもめいめい花火をえらぶ。ちびたロウソクはいよいよ溶けきって、花火から花火へ光と熱を渡し合い、暗闇に緑やピンクのかけらが飛び散る。
(8・28)
次回はよしいちひろがお題を出し、高原たまから制作をスタート。
お題は「お祝い」。ぜひお楽しみに。